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2017年08月05日

橋本佐内居宅跡

 福井県民なら誰でも知っている偉人の一人に橋本左内がいます。

 左内は幕末に活躍した人で

 名は弘道。号、景岳。緒方洪庵(おがたこうあん)・杉田成卿(すぎたせいけい)らに蘭学・医学を学び、藩主松平慶永(まつだいらよしなが)に認められ、藩政改革に尽力。将軍継嗣問題では一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)擁立に尽力。

 残念なことに安政の大獄で斬罪(ざんざい)に処された。26歳でした。

 福井市内には橋本左内にまつわる地がいくつか残っています。

 今回は橋本左内の居宅後を紹介します。
 
 ある日訪ねてみましたが、あまり広くなかったようです。
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 井戸の跡
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 説明書き
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 橋本左内の略歴
 幕末の開明派志士。福井藩士。
 名は綱紀(つなのり)、号は景岳、黎園(れいえん)。左内は通称。
 25石五人扶持(ぶち)奥外科医の長男。1848年(嘉永1)『啓発録』を著す。翌年大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)塾に学び、1854年(安政1)江戸遊学、蘭学(らんがく)研究を続けるとともに英語、ドイツ語にも理解をもった。
 この間、藤田東湖(ふじたとうこ)、西郷隆盛(さいごうたかもり)らとも交渉し内外情勢への識見を深め、1855年藩医から御書院番に起用され、1857年藩校明道館学監となり、政教一致、経済有用の学を鼓吹し洋書習学所を設けるなど治績をあげた。
 同年江戸に呼ばれて藩主松平慶永(まつだいらよしなが)の侍読兼内用掛となり、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を擁する将軍継嗣(けいし)運動に携わった。
 彼は近い将来における国際連合的機構の出現を予想し、積極的に開国してロシアと攻守同盟を結び、外国貿易を盛んにして富国強兵を実現するとともに、英明の将軍のもと親藩、譜代(ふだい)、外様(とざま)にかかわらず有為の大名、藩士、浪人、学者、さては庶民層までも網羅した幕府規模における統一国家体制の樹立を考えていた。
 1858年上京して公家(くげ)に遊説、あわせて通商条約への勅許を勧めたが、紀州慶福(よしとみ)(家茂(いえもち))を推す井伊直弼(いいなおすけ)大老の出現により一橋派は敗北、安政(あんせい)の大獄で捕らえられ、翌年処刑された。
 彼は西洋学への深い理解をもったが、実用の学としてより以上の価値を認めることができなかった。また、軽輩の身分から抜擢(ばってき)し藩・国政の枢機へ参加させた慶永への誠忠の念強く、在獄中も終始主家へ災いの及ぶことを恐れた。

posted by 福井 県人(フクイ ケント) at 14:54| 福井 ☀| Comment(0) | 歴史的遺構 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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