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2009年02月28日

今庄宿(その5)

 旧今庄小学校に向かって歩いていくと、左側に公園があり、その公園の奥には明治殿が建っています。

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 今では公園(公徳園)となっていますが、江戸時代には福井藩本陣がありました。

 本陣を務めたのは後藤覚左衛門家で、今庄宿の大庄屋で福井藩から十石の扶持をうける準藩士格だったそうです。

 また、福井藩のみならず、丸岡、鯖江藩などの人馬取り仕切りを統括していたので、参勤交代時には極めて忙しかったそうです。

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 江戸中期の享保十年(1725)頃から、宿駅の往来はますます盛んとなり今庄宿は賑わいました。

 寛政期(1789〜1801)に書かれた旅日記には、「今庄の駅に着くと、ここは北国の街道ということで、茶店には田楽、煮物、蕎麦などが売られ、道には呼び込みの女達が騒々しく、休まんせ、泊まらんせなどと、少し都なまりもまざった言葉のおかしさ・・・・・・」と情景を書いています。

 当時の様子が分かるようですね。

 

 今庄で生まれた踊りに「羽根曽踊り」があります。

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 この踊りは、十世紀初めの頃、今庄西方の藤倉山腹の藤勝寺で舞われた稚児舞が期限と伝えられていますが、宿場町が栄えるにつれて、盆踊りとなり、街道を通る旅人の旅情を慰めたそうです。

 情緒豊かで静かな踊りで、旅人達も加わって踊ったようで、現在の踊りに見られる武士、僧侶、町人、女中、百姓などの変装は当時の名残です。

 
 通りを隔てた向かい側には脇本陣がありました。

 今では、その場所には、今庄の篤志家田中和吉氏が建てた昭和会館が今も残っています。

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 この会館は、昭和五年に田中和吉氏が私財を投げ打って社会教科お推進する拠点として、鉄筋コンクリート三階建てで、宿泊の出来る研修の場として県内外の多くの団体が利用しました。

 昭和三十年からは、今庄役場として利用されました。

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 今庄宿の規模は、江戸時代の終わりには、戸数二九〇余軒、人口一三〇〇余人、旅籠屋五五軒、茶屋一五軒、酒屋一五軒、娼屋二軒、縮緬屋二軒、鳥屋一四軒、問屋三軒などがあったそうです。

 人口が1300人ばかりの町に旅籠が55軒もあったのは宿場町ならでこそ成り立っていたんでしょうね。

 


posted by 福井 県人(フクイ ケント) at 05:07| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 嶺北の観光地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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